世界の中の日本を考える

「子どもがいないから」、or 「うちの子はもう大人だから」教育問題は関心ありません、
と思っている人もちょっと耳を傾けて下さい。

「日本を救う私の緊急教育5提言」に賛成します 

京都大学西村和雄教授による「日本を救う私の緊急教育5提言」という一文は、昨年5月に週間東洋経済に発表されたので、ご存じの向きも多いだろう。
http://www.math.hc.keio.ac.jp/edu/5proposals.htm


上の資料をみていただきたい。
現役を30年以上前に終えている私でさえ、全問できる小学校程度の問題なのに、私立トップ校bでは全問正当は66%。

西村教授曰く:
私大の場合、ほとんど数学が入試科目にないか、あるいは社会科との選択となっている。その結果、入試で数学を選択していない学生のうち二割ぐらいが分数や小数でつまずいている

私も入試に数学のない大学しか受験していないが、上の問題は難なく解けた。
要するに、入試に関係あるかないか以前の、学校で何を学ぶか、学ばせるかの問題なのではないだろうか。文部省は、カリキュラムにある上記のような問題が解けない子供を作るより、いっそのことカリキュラムからこの項目を外してしまおうという狙いらしい。大人になっても必要ないものは学ぶ意味がない、なんて本当だろうか。私は、家庭の中にずっといて、妻として母としての役割しか持たなかったが、子どもの頃に難しい問題にも挑戦し、暗記も沢山した。その当時はこんなしんどいことやっても、将来役立つことはないだろうなと思ったりもした。だが、下から見たときに登れやしないと思った山の頂上に立ったときは、達成感があったし、昨日の自分より今日の自分が少しでも向上することの大切さも学んだ。

やっぱり、子どものうちになんでも挑戦しておいた方がいいと思う。
他人と比べるから、自分がそこまでできないときに卑屈になったりするのだと思う。
カリキュラムの内容を減らして、全員のレベルを下げることで、非行少年やひきこもりを防止できるなんてどうしてそんな風な発想になるのだろう。(町村文部科学大臣の「私の提言」(文芸春秋3月号)から、私はそのように読みとった。)
人は人、自分は自分、基準が自分自身に持てるなら、社会にも一人一人を尊重する土壌があるならば、もっと一人一人の選択肢も増えるし、それが「ゆとり」につながるのだと思う。むろん、大人たちがお手本を示す必要も大いにあるだろうし、自らを律していく厳しさを持たなければ、子どもは直ぐに大人の正体を見破ってしまうだろう。そうなったら、子ども達の チャレンジ精神の芽を摘むことになるだろう。

個人、個性の尊重。言葉の上だけならもう何年も前から叫ばれている。なのに、実態は全然違う。例えば、ある人を判断する基準に多くの人が出身学校やら、就職先など、その人個人ではなく、付録を重視していないだろうか。最近は随分様子が変わったと言われているが、それでも、わが子を荒れた公立だけには行かせたくないから、受験させてどこでもいいから私立へ、という話を良く聞く。私立ならどんな学校でも公立よりまし?そうだろうか。「私立」という半ば幻想で親たちは子どもの貴重な体験の場を奪っていないだろうか。現実社会の縮図は、あるとしたら公立学校にあるだろう。それを遠ざけて、わが子には少しでもいい環境を、というのは、分からないではない。学校が荒れているというのを私は実際に知らないからそんな暢気なことが言えるのよ、とおしかりを受けるかもしれない。だから、公立学校に選択の自由があれば、環境の整った公立を選ぶこともできるようになるだろう。その選択が許されない現在、親御さんにしてみれば、他に方法がないのかも知れない。

だが、本来子どもの学校を決める基準はその学校の教育方針なり教育環境であるはず。それが、「私立」「偏差値」で十把一絡げにされていないだろうか。
全員ヨーイドンでスタートし、ゴールも決まっているから、如何に助走をうまくやるか、ゴール地点にいかに人より先に到達するか、無我夢中で走り続けた者だけが、ゴールインできる。その手の競争は、周囲の景色を眺めながら走りたい人や、早さより美しさを求めたい人などは問題にされないのだ。ましてや、落伍しそうになった人に手を貸している余裕はない。「ゆとり教育」がその余裕を生み出すことを目指すというが、「キレたり」いらいらするのは、授業内容のレベルを下げて易しくして、みんなで助け合って勉強することでなくなる(寺脇氏-日本の論点)とは思えない。周囲の人たちへの思いやり、相手の立場になってみる、そういうことのできる人間は、新学習指導要領の「ゆとり」で実現はできない。家庭や社会そのものの果たす役割の方が大きいはずだ。何もかも学校で、というのはまず無理だろう。学校は勉強するところであって、お箸の持ち方や挨拶を教える場所ではないし、思いやりは教科書から学ぶものではない。全体のレベルを下げて、国際的に通用しない人間ばかりになり、その上、キレる子は減らず、では、アブハチ取らずになってしまう・・・

さてそこで、西村教授が謳う緊急提言。提言4と5は私には判断できないが、他の三つの提言はまさにその通りだと思う。(提言1は、実際その方向に動いていると思う。提言2の教科書に関しては、「新学習指導要領は一旦振り出しに戻した方がよいのでは?」でも触れてみた。)

■緊急提言1 小中学校は二十数人学級にすべし
落ちこぼれやいじめ、登校拒否をなくすためには、勉強時間を少なくすることではなく、きめ細かく目が行き届く少人数学級にする。

■緊急提言2 自学自習のできる詳しい教科書にすべし
 アメリカではすでに二十数人学級を実践しているが、現在、さらなる効果を確認した十八人学級を目指している。日本のように四〇人学級を続けているのは、先進国ではほかにない。二十数人が円形に座って、自らが問題を解く。そこでは、先生がつまずいた生徒を助ける。繰り返し復習することで落ちこぼれることはなくなる。

■緊急提言3 公立高校入試の内申書重視をやめよ
 今の内申書は、五段階評価のうえに、音楽や体育といった教師の主観的な評価による科目が高校に入るための総合点の二割近くを占めている。生徒は先生がどう思うかというストレスのもとに置かれて、自主性の芽を噤むことになってしまう。  これまで初等教育におけるいじめや非行の解決策として、常に勉強の軽量化が叫ばれてきたが、そもそもその解決方法として正当なやり方に目を向けてこなかった。本当の原因はここにあることを強調したい。

■緊急提言4 英数国理社による大学入学資格試験を導入せよ
 基礎学力を確認したうえで、大学独自の入試が行なえるように、センター試験を易しくしたものを実施する。ただし、すべての大学がこれを採用するのは難しいので、有力な大学についてのみ、これを受けないとその大学を受験できないようにする。入試センターは現に存在するので、会場などは民間の協力を得られれば、総コストは少なく済む。

■緊急提言5 大学院入学試験を即実施せよ
 今の大学院は、専門家を養成できないほど学力が低下している。アメリカにもあるように、大学院に入る際にはある程度の学力チェックが必要である。(以下省略)

雲(白)二つの歴史教科書
雲(白)二つの新聞記事
雲(白) 「新学習指導要領は一旦振り出しに戻した方がよいのでは?」

雲(白)マニュアルの功罪
雲(白)「新学習指導要領を考える」
雲(白)「変容する家庭
雲(白)英語、外国語、そして日本語教育」
雲(白)「直視しよう」
雲(白)「前例という化け物」
雲(白)
「よその国では」


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