二つの新聞記事

しばらくぶりに「教育問題」に触れてみたい。

9月18日付日経新聞に「指導要領越す記述容認」と題する一文が掲載された。高校での選択科目にのみ認められたものだが、要するにこれまで「指導要領は上限」と言い続けてきた文部科学省が、内容が削減された教科書が学力低下を招くとの批判に配慮したものだそうだ。

多くの識者が口を揃えて教科内容の削減に反対を表明して一体どれだけの歳月がたったのだろうか。小学校卒業時に100%の児童が到達できることを目指して減らしに減らした教科内容、せめて教科書だけでも内容たっぷりにして、学びたい子が学べるようにできないものか、そんなことを考えていたが、残念ながら教科書も内容が削減されたと聞く。これじゃ世界に太刀打ちできないよ・・・ だから、やっとこの一声を聞くことができた思いである。

指導要領が上限規制なのか、あるいは最低基準なのか、ほとんど議論された形跡がないが、昨年10月大島理森文部大臣は、これが「最低基準であり、理解の速い子には、より高度な内容を教えることも可能であることを明確にする」と述べているものの、結局それ以上の発展を見なかった。

今回の小野元之事務次官による説明は、高校の選択科目のみ該当する。それでは小学校中学校ではどうなのだろうか。やはり、今まで通り、指導要領は上限を縛るものという認識で、学びたい子ども達がここから先はダメと封印されることになるのだろうか。

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同じく12日、「つくる会」の歴史教科書 使用は11校521冊 シェア0.1%未満との見出しが眼に飛び込んできた。
新規参入した「新しい歴史教科書をつくる会」編集の扶桑社版教科書は、全体の0.039%にとどまった。一方、最大手の東京書籍は51.2%と前年度比10.8ポイントシェアを伸ばした。
この記事を見て、中国や韓国の人たちはほっとしているのかも知れないが、私には、なるべく批判をかわしたい教科書採択サイドの、言ってみれば事なかれ主義を見せられたような気がする。

夏休み、ちょうど市販されている扶桑社版「新しい歴史教科書」を読んでみた。市販本まえがきとして西尾幹二氏が次のように書いている。
「教科書の内容は国民に知らされていないのに、新聞だけが気ままな批判にふけってきた。また、韓国や中国が平然と反発したり修正要求をしたりしてきた。新聞に書く特定の人や外国人は、この教科書について自分の意見を自由に述べることができるのに、日本の国民は自分の眼で読み、自分の頭で判断することが許されていない」

今までわたしたちはともすると新聞に書かれている内容を鵜呑みにしてこなかっただろうか。自分の目で確かめにくい情報がほとんどの時代、メディアは我が眼となり耳となって、わたしたちに「真実」を伝えてくれると錯覚してこなかっただろうか。
事実、私はこの教科書を読んで、確かに部分的には使われている言葉そのものに多少の私情を感じたものの、総じてよくできていると思った。この教科書が、これまでの集中攻撃のような批判に対して、無言のまま「どうぞ、実際に読んでみて下さい」と教科書採択期限前に一般向けに販売したことの意味が、読んでみてはじめて納得できた。

本物の前書き-歴史を学ぶとは- の結びの言葉は歴史を学ぶことの楽しさについてわたしたちにこう語る。「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのはやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な、とらわれのない眼で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめるようにしよう。そうすれば、おのずと歴史の面白さが心に伝わってくるようになるだろう」
文部科学省の人たちが、今の時代の教育に望むことはこの考え方であるはずだ。つまり、これまでのような、詰め込み式、暗記一辺倒ではなく、学習内容を如何に柔軟に咀嚼するか、如何にふくよかに肉付けしていくか、学習内容そのものと同時にその方法論を今の子ども達に学んで欲しいのだと思う。
次回は、具体的にこの教科書の特徴を私流に分析してみたい。 (Sep. 18, 2001)



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