英語、外国語そして日本語

文部省が2002年度から実施する新学習指導要領。授業についていけない子を減らすことを掲げて、週5日制のもと、学習内容を3割削減し、小中学校共に授業を年間70時間減らす。小学校では小数点第2位以下の乗除計算が消え、中学校の必修英単語は507から100に減る。(日経新聞10/30)

最後の部分に注目していただきたい。この急激な減り方には驚かされるが、これは数字のからくりで、実際は必修単語の数え方が変わったためとどこかで説明されていた。だが、果たしてそうだろうか。また、小学生から英語に親しむための時間が新たに加わったそうだ。国際理解学習の一環として、「英語は面白い」という動機付けが本来の目的だ。この方向は分からないではない、確かに耳が柔軟なうちに英語の発音になれておくことはよいだろう。英語はコミュニケーション手段だということを肌で感じるためにもよいだろう。

この変更は、国際社会で英語は不可欠という流れのなかからでてきたことは明らか。日本人が学校英語から抜け出せず、使い物にならないことを実感し、これまでの学習方法が文法中心、暗記中心でこれではだめだという反省に立って、これからは文法は後回し、暗記も少なく、生きた英語を、という流れなのだろう。だが、小さいうちに英語に触れると言ってもほんの短い時間だ。それが将来英語上達にどれほど役に立つのだろう。いつかきちんと集中してやらない限り、だらだらやっていても決して上達しないのが外国語ではないだろうか。それだったら、その「いつか」は別にして、興味を持って自ら集中して学習できる下地があれば、いつだって学ぶのは本人次第だと思う。

英語が流暢に操れることイコール英語で話せることではないし、話し手の頭の中に話したい内容が無ければ、英語で話はできない。常日頃感じていることだが、まず母国語できちんと意志を伝えられるかどうか、その訓練がほとんどされていない現在の学校教育のあり方の方が、問題は大きいのではないだろうか。これは何も学校だけの話ではない。以心伝心、あうんの呼吸とか言われるが、身近な例では、町中できちんとした日本語、主語述語がきちんと整った日本語を話している人はどれだけいるだろう。相手に自分の意志を伝えたいという努力をしなくても伝わるから、伝わると思っているから、そういう社会だからかもしれない。日本では母親が子どもに「○○ちゃん、それ取って」で大抵すんでしまうが、私が暮らしてきた国々では、「○○ちゃん、それを取ってください」式に、よそでも通用する言い方をしていた。また、テレビのインタビュー番組などで、意見を求められて「いいんじゃないですか?」「まあ、こんなもんですね」式の、何がよくて何がこんなものだか判然としない答え方とか、一応自分の意見を述べていても、相手に分かるようにきちんと話していなかったりとか、それがシャイな日本人の美徳でもあるかも知れないが、外国の人にはそれじゃ通じない。まず自分の考えを持ち、それを相手に分かるように話せる力をつけること、まずはそこからだと思う。

さらに、世界で国境を越えて話されている言葉は英語だけではない。これからの注目言語はスペイン語、中国語や日本語などだろうとBBCラジオが報じていた。英語以外の外国語の存在も決して無視できないと思う。英語が日本人の間に普及すると言うことは同時に英語圏文化も広まるわけで、もう既に膨大なアメリカ文化のシャワーを浴びていると言えるだろうが、単にコミュニケーション手段が日本語以外の言語というよりは遙かに大きな影響があると思う。その辺のバランスも考える必要があるのではないか。(Feb. 2, 2001)




表紙のページへ
 総合目次へ