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チキン

特別寄稿:ある塾講師の呟き-3-
緒方 伸之

「人間は生きている限り"生涯現役"である」

どちらかと言えば"落ちこぼれ"的な生徒たちとの苦闘に疲れて自営の塾をたたんだ後にボクが勤めた塾は、いわばバリバリの進学塾だった。H市北部のニュータウンの近く、大通りに面したビルに大きな看板を出している。よきにつけ悪しきにつけ、ボクはこの塾で現代の子供たちについて、新しい発見をした。

「学ぶことに飢えた子供たちがいる」

 僕は現代の子供たちの多くが「学ぶ意欲」を失いかけているのではないかと思っていたが、それは一面の真実でしかなかったようである。つまり、"学校の勉強"的には能力がやや劣る子供たちに限って見られる症状だと考えるべきだったのだ。ボクが自営していた塾のようなキレイ事ではなく、はっきりと「○×高校合格」を至上命題に掲げたこの塾の生徒たちの目は、異様なほど輝いていた。教壇に立ったボクは生徒たちの「何でも吸収してやろう」という熱気に圧倒され、何十年か前の自分の受験時代にタイムスリップしたような不思議な感覚を味わった。しかも昔と違って妙に垢抜けている。一人で落ち込んでいるような生徒はいないし(見たところ)、もちろん他人の迷惑になるようなことは一切しない。お互いによく笑い、よく質問もする。信じられないような"上品な"子供たちがそこにいた。

 自然、授業には熱が入った。生徒たちの熱気にボクが煽られた形である。ボクが問題を飛ばした時に小声で教えてくれる生徒、二日酔いでテンションが上がらない時に「先生、頑張って」と無言でうなづいてくれる子供・・・ボクは、いまや死滅したと思い込んでいた「意欲溢れる生徒たち」とめぐり会った喜びで胸がいっぱいになった。最高に盛り上がった去年の夏期講習の後で、生徒の一人がボクに手紙をくれた。なぜ、授業がこんなに盛り上がったのかという事の背景の一端を物語っていると思うので、手前味噌だが引用する。

「(前略)・・・私は先生の授業が大好きです。生徒と先生が本当に一緒になって勉強してて、仲も良くて笑いもあって・・・こんなの学校じゃあり得ません。私にとって初めてのことでした。今まで私は塾は行かなくてもいいものと考えてました・・・(中略)・・・友達の話なんか聞くと『塾って眠いよー。みんな寝とるもん』ってよく聞くんですけど、私、先生の授業で眠くなったこと一度もないんです。学校では眠くなる授業がたくさんあるんですけど、やっぱりそれって、授業内容と先生にあると思うんです。つまらない授業をする先生の場合はやっぱり寝ている人が多いですし、逆に魅力的な授業をする先生の場合は寝ている人はすごく少ないです。前に母が、『生徒を眠くさせるような授業はダメ。授業を楽しく受けさせるのも先生の仕事』と言っていました。その通りだと思いました。先生はそれを完ぺきに私たちにやってくれました。先生みたいな先生と出会えて本当に嬉しいです・・・〈後略)・・・(傍線筆者)

 この手紙を貰った時、ボクは年甲斐もなく(!?)有頂天になったのだが、時がたつにつれて単純には喜べないと思うようになった。それは、大げさに言えば、日本の教育が見えないところで一種の「地殻変動」を起こしているのではないかという、不安と期待の入り混じった感覚だ。前掲の手紙で言えば、まず、生徒が「面白いか否か」という基準で、学校と塾の授業を同一平面上で比べている点である。

 生徒が「面白い」と感じた理由はボクにとっては明白だ。それは、きちんと能力別に分けたクラスのために(さっきの子は出来る子のクラス)、出来ない子への配慮も要らず、いわゆる「しつけ」もまったく必要がなかったから、思い切り気持よく授業が出来たのだ。多分、いまどきの公立学校ではこの「落ちこぼれをなくす配慮」や勉強以外の生徒指導に時間をとられて、実質的にも精神的にも肝心の「勉強そのもの」を教えるエネルギーが先生の側に余り残っていないのではないかと推測できる。その結果、「出来る」生徒にとっては学校の授業が退屈極まりないものに感じられるのだろう。はっきり言えば、度重なる指導要領の改正を通じて、文部省は「低いレベルに合わせた平等」を推し進めてきたように思う。確かに「みんなが分かる授業」は大事だけれども、それは「みんなに同じ能力があり、意欲も等しく持っている」ことを暗黙の前提にしている。ところが、実際はそうではない。学校で教わるような種類の「知」に対する能力や志向は非常に個人差がある。このことを無視して「みんなに分かる授業」を追い求めたら、勉強が好きな子が眠くなるような授業になるのは火を見るよりも明らかである。

 生徒から貰った手紙でボクが考えさせられたもう一つのことは、最初のことと裏腹なのだが、親たちが「授業を面白くするのは先生の仕事」と、まるで映画館の観客のような「お客様」の立場に我が子を置いて疑わないことだ。授業とは、ご存知のように教師と生徒の相互作用によって成り立つものである。生徒が眠くなることは、先生の責任も少しはあるだろうが、何よりもまず本人の責任なのではないだろうか。大げさに言えば、いくら有能な先生でも、テレビゲームのやり過ぎで徹夜した生徒まで惹きつけるような「魅力的な」授業はできないだろう。ボクは文部省と同時に、今の日本の親たちも、教育ということについて根本的なところで責任回避をしているように思えてならない。

 長々と書いてきたが、僕は遅かれ早かれ、「教育」という世界も「民営化」して市場原理にゆだねざるを得ないのではないかと思うことがある。つまり、戦前や経済復興期の日本のような「国家的な目標」がない以上、しつけにしても勉強にしても、誰もが納得できる公的な基準を見つけるのが難しい時代になってきた。そこで、あくまでも一つの仮説的な提案だが、「公教育」に幻想を求めるのはもうやめにして、それぞれの親や生徒が自分の責任で「理想の教育」の形を考え、その「商品」を私学なり、塾なりから「購入する」のはどうかと思うのである。勉強が嫌いで、スポーツが得意な子供は「社会に出たら体力勝負や」とテレビコマーシャルを流す学校に行けばいいし、勉強が好きだけど運動オンチの子供は「世の中、やっぱ1次関数やで」と全面広告を出す学校に行けばいい・・・これはいささか極論だが、塾に来て余りに伸び伸びと勉強する子供たちを前にして、今の学校制度が機能不全に陥っていると感じ、この子たちのエネルギーにまっとうな道筋をつけてやるのは大人の責任なのだ。

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