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チキン

特別寄稿:ある塾講師の呟き-2-
緒方 伸之


最近、塾の2人の生徒から本を借りた。一人は遅刻常習犯の男子で、遅れてきてもぬぼーっと立ったまま。「どうした?」と聞いてもヘラヘラ笑っているような、ちょっと不気味な少年である。あとになって、彼がテニス部で県大会でも上位に入賞する実力の持ち主と聞いた時には意外に思ったものだが、彼が貸してくれたのは、悪名高き、かの「バトル・ロワイヤル」。内容は映画化もされて皆さんよくご存じだろうが、一応あらすじをご紹介すると・・・全体主義国家になった日本らしき架空の国で、政府が任意の中学生のクラスを選び、瀬戸内海の無人島で武器を持たせてお互いに殺し合わせ、生き残った者を表彰する・・・その状況に置かれた一部の中学生が、恐怖感や残忍性を剥き出しにする「ワルい」クラスメートたちと戦いながら、友情やいたわりと言った人間性を守って行くと言うストーリー。貸してくれた生徒は、「3日で読んだ。感動した」と言った。

 もう一人は学年でもトップクラスの女子で、「塾なんか眠くなるだけ」と言って今まで塾に行かなかった"りん"とした感じの生徒である。彼女が「先生、私、パパとこれ読んで涙が止まらなかった」と言って貸してくれた本は、浅田次郎氏の「壬生義士伝」。こちらは幕末の日本が舞台で、貧苦にあえぐ吉村某という東北の下級武士が脱藩して金払いのいい新撰組に身を投じ、"義(=妻子を養う)"のために薩長側の武士などを自慢の剣術で次々に斬り殺し、最後は大坂の脱藩した藩邸に逃げ込んで切腹を命じられるという話だ。余談になるが、この本を貸してくれた女子生徒は礼節も正しく、と言って言うべき時にはきちんと自分の意見を主張する、いわば"理想的な現代っ子"として、私に"教える情熱"を蘇らせてくれた生徒である。

 さて、一見、正反対に見える2人の生徒から借りた2冊の本を読んで、私は「感動」と言う精神作用について、この2人が、いやこの2冊が共通の特徴を持っていると思った。そのことについて、少し私見を書かせて戴きたいと思う。

 それは、まったくの虚構とある程度の"歴史的事実"という違いはあるが、両方とも"殺るか殺られるか"という極限状況を設定し、その中で、ヒトを殺すことの正当性をかなり個人的な理由で正当化していることだ。「バトル・ロワイヤル」の場合は、不当な殺し合いを押しつけた全体主義国家に対する怒りという"公憤"も一応あるが、何と言っても襲いかかってくる友人を殺していい理由は、「そいつが友情を裏切った」からであり、「どちらかと言えばいい奴」や「淡い恋心」を守りあうことに求められる。
「壬生義士伝」はもっとはっきりと"義"の意味を定義している。それは「家族を養うこと」である。主人公の吉村某は佐幕の意識も尊皇の意識もない。あるのは、「妻子を貧困から救おう」とする、まったく個人的な"義"の思いだけである。その心情がばったばったとヒトを斬り殺す理由として、見事に正当化される。

一旦、"意味"を獲得した殺戮は、物語の中で我が物顔に跳梁跋扈する。次々に現れる残虐な場面・・・。「バトル・ロワイヤル」では、襲ってきたクラスメートの顔が鉈で二つに割られる場面、「壬生義士伝」では相手の胴体を肩口から切り裂く"袈裟がけ"という斬り方・・・残虐性という面から見てもいい勝負である。(それなのに前者ばかりが非難されるのはなぜだろう・・・)

本自体にと言うよりは、それを読んで「感動」した現代の中学生の気質に、私は慄然とせざるを得なかった。つまり、私は彼らが潜在的に"血"に飢えていることを初めて実感したのである。勿論、古今の文学にも表されているように、人間の精神の奥には一定レベルの残虐性が潜んでいる。そして、その部分をいかに統御し、"合理的に"発散させるかが、精神を持つ人間の腕の見せどころである。殺したいから殺すのではなく、これこれしかじかの正当な理由から死んでいただく・・・維新の志士たちも、2・26事件の青年将校も、エノラ・ゲイ号から原爆を落としたアメリカ軍パイロットさえも、殺すこと自体が目的ではなく、「全体の利益」のためという大義名分、つまり「義」があったはずだ。

 ところが、この2冊の本で語られる「義」はなんと矮小化されていることだろう。一方は「ちょっといい奴」や「死んだ親友が好きだった彼女」を守るため、他方は、極端にいえば「金」のためである。誤解しないで戴きたいが、私はそれ自体が悪いと言っているのではない。ヒトの命を絶つ理由としては薄弱に過ぎると言いたいのだ。(もっとも、そもそも、戦後教育の中で私たちは他殺や自殺を正当化できる理由など、そもそも存在しないと教えられてきたが・・・)

 結論を急ごう。私は、現代の子供たちが自己に内在する「死への衝動」や「血を見ることへの憧れ」を持て余しかけているのではないかと思う。彼らは戦争を体験していない今の大人たちが作った教育システムの偽善性をとっくに見抜いている。そして、「核」の出現によって封印された「闘争本能」の出口を求めてのたうっている。どんなちっぽけな「義」でもいいから、己を越え、自意識の桎梏から逃れる場所を見つけ出そうともがいている・・・。
それに対して、私たち大人がとるべき道は大きく分けて二つあるように思う。一つは「新しい教科書をつくる会」が求めているような「国家としてのアイデンティティー」を復活させ、民族的な正義(そのために個人が死ねるような)を復権させる方法。そしてもう一つは、憲法前文の理想をあくまでも追求して、世界市民として「ボランティア国家」に徹すること・・・。不甲斐ない話だが、私自身、この両極の間で今も心が揺れ動いている。そして、どちらにせよ、一度は現憲法を見直す必要があると考えている(たとえ、後者の道を歩むとしても、世界には多くの地域紛争が現実に存在し、丸腰で死にに行けるような者はいないと思うので)。

 とにかく、「経済活動」が「義」として少年たちを説得できた時代は終わった。だが、大人たちの中に、説得力を持って「生きていることはそれだけで素晴らしい」と子供に伝えられる人は少ない。せめて、少年たちが「無意味な死」に憧れて動物的本能に身を委ねないように、新たな「義」を模索するか、さもなくば、不断に生死の意味(もしくは無意味)を子供たちが体感できるような新しい教育システムを構築する必要があるのではないだろうか。 (Apr. 7, 2001)

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