閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
勝者の代償
                   ――― ロバート・B・ライシュ

  
  この書を読んで、繁栄を極めたアメリカ文明の結末はかくなるものかと長嘆息を禁じ得なかった。筆者はクリントン政権の労働長官であったが、考える所あって職を辞し、今では大学教授を勤める傍ら、執筆活動に携わっている。その職を辞した動機が本著「勝者の代償」のテーマでもあるのだが。 
  
  アメリカは日本をはじめとした後進各国の追い上げにあって,70年代後半から不況に陥った。然し80年代後半から90年代にかけて不死鳥の如く甦った。それはそれまでのオールド・エコノミーからニュー・エコノミーへの転換に成功したからであると言われている。然しそのことは経済の分野に止まらず、社会に大きな変容を迫る事になった。個人の生活も好むと好まざるに関らず変わらざるを得なくなってきたし、今後益々変わっていくと思われる。果たしてこのニュー・エコノミーの勝者の代償は何であろうか。
  筆者ライシュ氏はそのキャリアーから言って実務と理論に明るく、アメリカ社会の変貌ぶりを良く捉えている。この書は極めて示唆に富み、アメリカ文化に追従型の日本の将来を考える上で貴重な書と言えよう。
  冒頭オールド・エコノミーとニュー・エコノミーとの違いの説明から入る。オールド・エコノミーは画一的大量生産を特色とする。従って規模の差が物を言うエコノミー。まだ労働組合の力も強く、様々な労働環境の整備、福祉制度の充実が図られた。然しグロバリゼーションの進展に伴い、オールド・エコノミーは世界の隅々まで拡がっていった。アメリカの労働者は中国の山奥の労働者と競争せざるを得なくなった。極端な労務費の差は最早科学の粋を集めても埋められなくなってしまった。
  そこにレーガンが登場、アメリカはオールド・エコノミーからニュー・エコノミーに転進していった。当初我々はニュー・エコノミーの実態が良く分からなかった。IT革命だとか、サービス産業化だとか人々はそれを呼んだ。その頃からアメリカ人は実に良く働くと言う話が伝わって来るようになった。働き蜂日本がそろそろ元気がなくなったというのに。

  世の中にはとてつもない利益を生む大発明をする研究者がいる。とんでもない稼ぎをするエンタテーナーやアーチスト、スポーツマンと言った人種がいる。それは一般の人の10倍や20倍の稼ぎと違う。百倍や千倍になる事だってある。筆者はこれらを変人と呼んでいる。然し世の中は変人だけでは仕事にならない。消費者が何を欲しているのか、それを充足できる変人が何処にいるのかを知り、それを結びつけ組み立てる人がいる。筆者はこれを精神分析家と呼んでいる。
  いまや自前の大工場を持って大量生産をする必要は無い。消費者の必要に合わせて一品一様、世界の最も安いところから部品を集め、最も安いところでそれを組み立てる。それを世界中をネットしている配送業者に依頼して消費者の手元に届ける。消費者は何時でも好きなものを手に入れる事が出来る。如何に情報を握っているか、如何にブランドに信用があるかが勝負になってくる。デル・コンピューターの成功がいい例である。
  ニュー・エコノミーの変人と精神分析家は猛烈に働き、猛烈に稼ぐ。一方オールド・エコノミーの労働者は中国の山奥と競争して給料は下がる一方、福祉は次第に切り捨てられる。然し一旦身についた浪費癖は急にはなくならない。家庭の主婦が働かざるを得なくなってきている。いまやアメリカ人はヨーロッパ人より一年間で350時間も多く働いている。かっての働き蜂日本も大分ビハインドになって来ているようだ。
  
  かくしてアメリカの所得格差は拡がる一方である。80年にアメリカの大企業の平均的なトップは労働者の40倍を稼いでいたが、20末には400倍を上回る様になった。先日新聞を読んでいたら、アメリカのCEOの上位20人の平均年収は1億5千万ドルと出ていた。アメリカの所得上位1%の人の所得シェアーは実に18%におよんでいる。
  CEOは膨大な報酬を得るためには株価を上げなくてはならない。それはオールド・エコノミーの犠牲の上に成り立つ。リストラ、福祉カット、購買コストの切り下げ・・・。それでも自らの首が飛ぶのを怖れ、猛烈に働き続ける。 

  所得格差と労働時間の増大はアメリカの社会に様々な歪を齎してきた。実は筆者ライシュ氏が労働長官の重職を辞めたのも、家庭に於ける充分な時間が持てなかったからである。富を取るか、時間を取るか、アメリカの勝者はひたすら富を追及し続けている。それは次第に家庭とか地域とか、諸々のコミニュティーの崩壊に連なって来るようになった。
  更に困った事には、貧富の差の拡大は社会福祉・教育・公共事業等に対する投資の考え方に変更を迫ってきた。富者はお金を出すのはいいけれど、それに対する相応の見返りがなければ馬鹿らしいと考えるようになった。そもそも税金とは、富める者から集めたものを貧しき者にも平等に使うと言う富の再配分の作用があるものだ。
  パブリック・スクールは税金を納め、貧しい人のために使われるから嫌だ。私立学校に入れ、寄付金を出すのは直接自分に還元するから構わない。健康保険も貧乏人と一緒は出入りが見合わない。金持ちだけの保険を作って高度の医療を受けたい。貧乏人のための失業保険は払いたくない。年金もしかり。次第に個人化してくる。つまり新しい階級が生まれてきているのである。    
  そもそも税金とか保険とか年金というものは、平等な社会を目指して作られてきたものである。戦後の日本はマルクスもびっくりするような世界で最も平等な社会を作り上げてきた。所得税は高度な累進性、贈与税・相続税は著しく高く、金持ちは三代続かないといわれている。保険も年金も国民全員に当たっている。アメリカではヒラリー夫人が国民皆保険を目指して頑張ったが果たせなかったと言うのに。然しこの平等主義が日本の活力を失はせているといわれている。世の中なかなか難しい。
  然しこのアメリカ流のいき方も嵩じてくると社会に大きな歪を生んでくる。金持ちは段々と一定の場所に住むようになる。アメリカは地方税が大きいので自分達に有利になるところに住居を選ぶ。さらには一定の地域を区切って、パブリック・サービスを自前でやるようになる。学校も警察も消防もごみ集めも不要。全て自分達で金を出してやる。その代わり税金は納めない。サービスの料金は高いがパブリックのものより数段質が良い。

アメリカの大学一年生を対象にした調査で「金銭的にとても豊かになる」事を選択した人が、68年には41%に過ぎなかったが、98年には74%に上った。逆に「有意義な人生の哲学を作り出す」は75%から41%に落ちている。

  勝者はひたすら富を求めてわき目も振らずに働き続ける。貧富の差はかってないほど拡がる。然し税金その他の社会福祉における富の再分配は忌避される。自分で稼いだものは自分で使おう。家庭をはじめとする人間が営む様々なコミニュティは稼ぎに忙しく、次第に崩壊していく。
  果たして「勝者の代償」は如何に。
                     ( 2002・09 )