閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
      信 長      
                              

  今年の初春大歌舞伎は、玉三郎と仁左衛門の組合せと言うことで、大変な賑わいであった。十六夜清心は、前任が悪人に変わっていく様子が面白く、さすが名優の芸は確かなものと感心させられた。

  松竹座のロビーに二月の出し物のポスターが貼ってあった。海老蔵の「信長」である。なかなかの凛々しい顔立ちに、おばさんならずとも惹かれるものがあった。新聞評も上々で、歌舞伎ではないが行ってみようかと言うことになった。

  昭和二十七年、大仏次郎が先々代の海老蔵のために「若き日の信長」を書き下ろした。昭和三十年代の初め、大阪に新歌舞伎座ができ、その柿落としに海老蔵の「若き日の信長」が掛かった。会社の慰安会で観に行ったのを憶えている。信長が柿の木の下で、童と一緒に柿を食べているのを憶えている。

  そう言えば、まだ子供の頃、父親に連れられて信長の映画を観に行ったことがある。信長が父親の葬儀にやってきて、いきなり香を手にして位牌めがけて投げつけるシーンがあった。それとお守役の爺が切腹をするところを憶えている。ともかく信長という人は粗暴な人なんだというイメージが強く染み付いている。

  この度の「信長」は海老蔵が演ずるが歌舞伎ではない。新作の芝居である。物語は信長の父信秀の葬儀から、本能寺の変で死ぬまでを、信長を中心にして、お濃・お市・秀吉・光秀が登場して進められていく。よく知られた話なのでここでは筋は省略する。

  信長は自分の力で天下を従へ、争いのない平和で文化的な国家を作ろうと考えた。そのための力を与えてくれと神に祈るのである。信長の思いは雄大で、日本を統一して、唐・天竺はもとより、ローマまで攻め上ろうと言うものである。この芝居の中でも、信長が随所に自らの野望を披瀝するところが出てくる。困ったことには信長は自分の考えに従わないものは不要と考えている。つまり抹殺してもかまわないと言う哲学を持っている。周囲のものは信長の顔色を伺いピリピリしている。一人秀吉だけは冗談を交えながらずけずけ物を言うが、信長は又猿めがと一向に意に介さない。

  信長は若い頃粗暴で大うつけ者と言われていた。歴史の中でもそのイメージが強い。しかし最近では信長の合理的なものの考え方、新しいものに対する好奇心、文化的なものに対する興味などその近代性が強調されることが多くなってきた。

  信長は僧侶の欺瞞性には我慢ならなかった。比叡山延暦寺を焼き討ちし、一向一揆を討伐した。昔のことであるが、高野山を参詣したときのこと、驚いたことがあった。諸大名の立派な墓が並ぶ参道を歩いていた時の事、案内人が道から少し中に入った小さな墓を指してこんなことを言った。皆さんあれが信長の墓です。信長の墓は僧侶をたくさん殺したので、無いものと思われてきました。それが昭和四十年の初めに発見されたのです。それにしても天下人信長の墓にしては貧弱ではないか。

  反面信長はキリスト教には寛大だった。ポルトガルの宣教師を安土城に招いて、自らの力を誇示するとともに、西欧の新しい情報の収集に余念が無かった。その時信長はヨーロッパスタイル・ポルトガル風の服で現れた。これが又海老蔵にぴったりお似合いなのである。

  信長は安土に壮大な城を築いた。従来の城は戦のためのものである。安土城は政治の場、文化の中心であった。私は安土城を二度訪れたことがある。今は天守閣の址しか残っていない。思ったより小さい。しかし琵琶湖を見下ろす絶好の場所である。天守閣に登る四百段の石段はきつい。しかしその両脇に秀吉を始めとして御家来衆の屋敷の跡があり、

それを眺めながら行くと、いつの間にか着いてしまう。

  山の下に中世ヨーロッパ風の安土城考古博物館があり、当時の資料が整備されている。その隣には「安土城天主信長の館」があり、この天守閣の五、六層の原寸大の模型が作られている。何でも一九九二年にスペインのセビリアで万国博が開かれた時、日本館として展示されたそうである。その監修は堺屋太一が担当したとの事。その金箔と黒の漆塗りの絢爛豪華な内装にはど肝をぬかれる。この芝居でも同じような大道具が使われている。それが又信長のポルトガル風な服装にぴったりである。  

  人生僅かに五十年、それに一年足らずで没してしまった。信長こそわが国の歴史の中で、革命児といえよう。その強烈な個性はわが国の近代化に一石を投じた。ある人が司馬遼太郎に信長をどう思うかを聞いたところ、その合理性、革新性は高く買いながらこう言った。「しかし私は怖ろしくて、とても仕える気にはなりません」。

  わが国は超民主主義の国、全てコンセンサスの上に成り立っている。強烈な個性は嫌われる。小泉首相が少し独自色を出そうとすると袋叩きに会う。歴代首相の中で個性的だったのは吉田首相、田中首相ぐらいのもかもしれない。

  大仏次郎が先々代の海老蔵のために「若き日の信長」を書き下ろした。斉藤雅文がその孫の海老蔵のために「信長」を書き下ろした。海老蔵と信長は一体となってイメージが重なる。海老蔵と言えばまだ新之助の時代「源氏物語」を見た。又海老蔵の襲名披露では松竹座で「勧進帳」南座で「暫」を観た。

  「源氏物語」のような新作物で,しかも優男の役も立派にこなし、襲名披露では市川家代々に伝わる伝統ある演目を見事にこなす。華ある役者として歌舞伎界を背負って今後ますますの活躍が期待されるところである。

  今回の「信長」は歌舞伎ではないが、海老蔵にぴったりの役柄であった。殊にポルトガル風の衣装を身に着け、金ぴかの天守閣に現れるところなど、これぞ海老蔵と言いたくなる。

  人生僅か五十年、いまや八十年に延びた。最近堺屋太一が日経紙に「世界を創った男 チンギス。ハン」を連載している。そこにこんなことが書いてあった。戦国時代と現在を比べれば、年齢は二割り増しに三たしたぐらいだろう。・・・信長の四九歳は六二歳にあたる。正に政財界のトップで働いている人たちの年齢であった。歴史にイフという言葉は無いといわれるが、信長がもう十年長生きしたら歴史は変わっていたかもしれない。

  今本能寺を訪れても昔をしのぶものは無い。

                         ( 2006・03 )