閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
マクドナルド化する社会
                         ――ジヨージ・リッツア
 
  昨年パリの街を歩いていたら、マクドナルドの店があるのに驚いた。それから暫くして、新聞にこんな記事が出ていた。フランスの田舎の街で、マクドナルドの店の開店に反対運動が起こった。更にベルギーでは、建設中のマクドナルドの店が、反対する住民によって破壊されるという事件が起こった。
  ヨ−ロッパ、特に南ヨーロッパでは、昼食に一時間も二時間もかけている。マクドナルドは、それを長くても20分で終わらせようとしている。そのためのレシピの開発、サービス・マュアルの開発、そして教育訓練は大変なものである。
  今から25年程前、あるミッションでアメリカに行った。昼食に立ち寄るレストランはどこも同じスタイル、メニューは写真入で日本のような蝋細工はなかった。店員はカラフルな制服をまとい、きびきびと動き回っていた。サラダには五種類ほどのドレッシングのチョイスがあった。それに感心していると、案内の人が、アメリカには四、五種類のドレッシングしかありませんとのこと。これがよくマーケッティングの本に紹介されているチエーン店というものかといたく興味がそそられた。

  わが国に、ケンタッキー・フライド・チキンとか、ミスター・ドーナツとか、マクドナルドのようなファスト・フードの店が上陸して来たときに、私は最初珍しくても、そのうちすぐに飽きられてしまうだろうと思っていた。日本はやはり、そばかうどん、あるいはカツ丼かカレーライスであると信じていた。
それが一向に衰えを見せず、いまやすっかりわが国の文化の中に定着してしまった。わが国はアメリカの文化を吸収するのは実に早く、抵抗感がない。ヨーロッパとは大違いである。
  それのみか、アメリカのチエーン店に倣って、わが国独自のファスト・フードのチエーン店も続々誕生している。伝統的蕎麦屋や寿司屋までもチエーン化し、飲み屋も全く同様の有様である。

  アメリカのメリーランド大学のジョージ・リッツア教授が、「マクドナルド化する社会」という本を書いている。なかなか示唆に富む話であり興味深く読んだ。
 アメリカでは今世紀初頭、フォーディズムと言う生産管理方式が生まれた。それは従来の職人の技によるワンセットの生産方式と異なり、非熟練労働者による、分業の、徹底したマニュアルによる生産方式であった。それは大変な生産効率の向上をもたらし、T型フォードのコストを画期的に引き下げ、自動車を大衆のものにした。しかしチヤップリンの描くように、人間は機械の一部になってしまった。
  我々は、このようなマニュアル化は生産部門の専売独許と思っていた。しかしそれがやがて流通部門に及んできた。本部で研究開発されたマニュアルが、チエーン店の端々まで行き亘り、それによって統括管理されるようになった。

  このマニュアル化した社会、管理された社会について、リッツア教授は色々な角度から調査し、問題提起を行っている。その先駆者がマクドナルドであり、その象徴が赤地に金色のMのマークなのである。それはアメリカのいたるところで輝き、世界各国に広げようとしている。アメリカは自国の文化、アメリカ型の管理社会、マニュアル社会を世界に輸出しようとしている。
  教授は学生とともに、マクドナルド化現象を研究しようと思った。そして学生に、この現象をどう思うかと問いただした。教授の意に反して、「大変に結構ではないか」という答えが返ってきて、教授はいささか出鼻をくじかれてしまった。 
  教授は上から決まったマニュアルが押し付けられ、あたかも機械の一部のように動いていく行き方に問題を感じ、日本のQCサークルに一つの救いを求めている。そこにはパートのおばさんも交えて、日夜作業標準書の改定に取り組んでいる姿がある。しかしアメリカの若者は、このマクドナルド方式を結構良いじゃないかと言っている。
  マクドナルド化現象は、スーパーやファスト・フードにとどまらない。アメリカの社会のあらゆる場所に広く蔓延している。教育の分野では、尤も個性的であらねばならない大学まで及んできている。教科書・試験・採点方法もマニュアル化現象が進んでいる。教授の主観が入る余地は少なく、顔が見えなくなってきている。そんなことを言えば、わが国のマルバツ式のほうが、もっとマクドナル化が進んでいるのではないのか。
  医療の分野では、進歩した診断技術による客観的判断の方が重視され、医師の主観的判断が退けられる。ここでも医師の顔が見えなくなってきている。
  同じく、職場でもマニュアル化が進み、個性が尤も発揮さるべきセールスマンも、すっかりマニュアル化されたセールストーク、接客態度が訓練によって植え付けられる。本人も何を喋っているのか分からないのに物が売れていく。
  ディズニーランドはその典型であろう。パック旅行はいよいよ隆盛で、それは現地の文化と関係なく、アメリカ人の好みに合わせて設計されている。
  住宅は建売住宅会社により規格化され団地に踏み込むと我が家が分からなくなる。そして遂にマクドナルド化は家の中に侵入し、いまや家庭料理は冷凍テレビディナーに堕ち、地域と民族の違い、更に家庭の違いは失われてしまった。 
  銀行の窓口や改札口もマニュアル化はどんどん進み、サービスは消費者の手に移されていっている。人間から人間に依らない技術体系への置換、客をマクドナルド化された社会への従順な参加者に仕上げることが着々と進行している。
  教授はマクドナルド化から逃れるためには、お金さえあれば、アメリカから出ることだと言っている。但しそれもひと時、やがてマクドナルド化は世界中に広まるから、逃れられないとのことである。
  教授はアメリカの事を心配するが、此処で述べられているマクドナルド現象は、わが国において夙に進んでいる。場合によってはアメリカ以上かもしれない。例えば、最近レジで1万円出すと、必ず語尾を上げて、1万円からお預かりしますと言う。一体1万円から何を預かろうと言うのか。すると言う。代金ですと。代金は預かるものか。預かったのは1万円ではないのか。誰がこの台詞をマニュアルに入れたか知れないが、変な言葉が流行したものだ。
  日本は、戦後世界の中で最もアメリカ文化の影響を受けてきた国である。マクドナル化は広く浸透してきている。最近の医療ミスの話を聞くと、まさにその弊害が出ている。顔が見えない医療、患者は何に頼ったらよいのか。ひたすらコンピューターの数字とにらめっこするだけである。そして遂にお袋の味までマニュアル化が進み、デパートやスーパーでコーナーができるようになってきている世の中である。
                         (2000・03)