閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
     会社はだれのものか 
              
                  ―――  岩井 克人     

  ホリエモンの出現により、会社を売買する話が現実味を帯びてきた。いったい「会社はだれのものか」と言うことに人々の関心を集めるようになった。そんな折、岩井克人教授の著「会社はだれのものか」が目に留まり、早速読んでみた。
  その中で教授の前著「会社はこれからどうなるのか」と言う本からしばしば引用されているところがある。そこで前著も読んでみた。
  教授は最初に株式会社の基本構造について説いている。個人企業においては店主は店の資産を所有し、それをどう処分しようと勝手である。これが法人企業だとそうは行かない。株主が勝手に処分するなんてとんでもない。会社の資産の所有者は株主でなく会社である。株主が法人としての企業を株式と言う形で所有し、その法人としての企業が会社の資産を所有するという二重の所有関係になっている。
法人としての会社が、ヒトとしての経営活動を行うには生身の人間がいる。それが代表取締役である。そしてここを誤ってはいけない。取締役は株主の委任を受けた代理人ではなく、会社の信任を受けている信任受託者である。個人企業が知り合いに経営を任せているのとは訳が違う。会社は法人企業としてあたかも人であるかのごとき存在として、社会と関わりを持つようになった。その影響するところすこぶる大きく、社会の公器としての自覚を持って活動していかねばならない。それなくしては資本主義の制度そのものが成立しなくなってしまう。ここに経営者の倫理観が問われるゆえんがある。
  そう言えばわれわれ学校で経営学を学んだ頃、所有と経営の分離とか、専門経営者の出現とか、経営者の倫理性というようなことが盛んに論ぜられたのを思い出す。資本主義の高度化の過程で、会社の規模が大きくなり、経営が複雑かつ専門性を要するようになり、社会に対する影響力が大きくなってきたからであろう。

  アメリカで近年株価と連動したボーナスや、株式オプションの形で経営者に報酬を支払う制度が普及してきている。これにより経営者に株主と同様株価を上げようというインセンティブが働き、所有と経営が一体となってしまう恐れがでてきた。株価のつり上げで、いまや経営者が従業員の五百倍の報酬を得ることも珍しくなくなってしまった。
  エンロン事件が起こった。エネルギー関連の巨大商社エンロンが倒産した。経営者が会社の業績を粉飾して株価を吊り上げ、自分の持ち株を売り抜け巨万の富を得た。従業員は失職、年金はパァー、株券は紙くず。アメリカの企業統治の制度が、会社は社会の公器であるということを否定した必然の結果である。もちろんこのような不正を防止すべく、社外の監査制度も設けられてはいるが、監査会社そのものが不正にかかわっていたとは何をか言わんやである。   

  教授はこれからの経済がどうなるかについて述べている。従来の産業資本主義の時代では、農村の低コストで豊富な産業予備軍があったので、機械に投資さえすればよかった。しかしそれがなくなり日本経済は行き詰ってしまった。
  それではポスト産業資本主義はいったいどうなるのであろうか。世の中ではそれをIT革命、グローバル化、金融革命の時代と呼んでいる。ポスト産業資本主義の時代、利潤の源泉は低コストの労働力ではなく差異性にある。差異性を意識的に作り出すことにある。新技術の開発、新市場の開拓、新組織の導入等で他社が真似の出来ないことを行う。更に進んで差異性つまり情報そのものを商品化するようになる。これを進めてきたのはまさにIT革命である。       
  次にグローバル革命であるが、それは人・物・カネ・情報が自由に移動できるようになったことが背景にあるが、なんと言っても、低開発国の安価で豊富な労働力が現地で自由に調達できるようになったからである。同時にそのことは商品が自由に出入りすることを促進した。
  いま一つの金融革命であるが、産業資本主義の時代にはおカネは絶対の支配力があった。それを機械に投資しさえすれば利潤を得る事が出来た。ポスト産業資本の時代利潤は差異性しか生まれない。金融は差異性を媒介するものである。さまざまな金融市場が開発され、時間・空間のリスクを埋め差異性を媒介する市場となった。しかし金融の力は以前に比べかえって弱まってきている。

  さてこのような時代、一方では差異化、つまり情報を求める努力は進められるが、他方では技術のオープン化も進んでくる。昔のようになんでも自前でやる必要はなくなった。デル・コンピューターのように、世界各地の技術や市場を組み合わせ成功している例もある。このような時代、終身雇用の従業員により、営々と築いてきた城はどうなるのであろうか。
  教授は言う。こういう時代こそ会社にはコアー・コンピタンス(中核をなす競争力、蓄積された固有財産、知的資産)は必要であると。会社の中には経営者の企画力、技術者の開発力、労働者のノウハウ等その組織に特殊的な人的資源のネットワークがある。企業文化とも言うべきものか。
  私が在社中、組織開発の研修をよくやった。外部のコンサルタントを呼ぶといつももめる。組織の特殊性と普遍性についてぶつかる。コンサルタントは出来るだけ普遍性を押し付けようとする。従業員は長い間築いてきた組織の特殊性、つまり企業文化がすっかり身についているので、コンサルタントの異文化に反発するのである。
  日本の企業文化の特殊性は高度成長の原動力と讃えられてきたが、それが一転日本経済の不況の元凶のように言われてきた。しかしわが国でもトヨタ・キャノン・タケダというように、コア・コンピタンスを大切にし、絶えず革新を図り成功している会社もある。
  わが国では会社が合併してもその力を発揮するのに時間がかかる。企業文化を統合するのに時間がかかるからである。ホリエモン事件のときも、フジ側の労働組合や関係するタレントは猛反発した。株主が代わり、経営陣が代わり、企業文化を変えられることを恐れたのであろう。企業文化は絶えず革新していかなければならないが、モノとして売買の対象になるようなものではない。
                             
  会社はだれのものか。法人としての企業は社会に価値があるからヒトとして認められている。そこに当然法人企業としての社会的責任が生じてくる。アメリカの株主主権論者は会社をモノとして考え、株主の利益追求の道具に過ぎないと考えている。
  会社をモノとして売買し、自分の意のままに動く経営者を派遣し、知識・情報はカネにあかして買い集めていく。だが人間の知的活動はおカネでは変えない。会社は買えても人は買えない。なんでもおカネで買えると思うのは間違いであろう。情報はおカネで買えば役に立つと考えるのは誤りであろう。そして会社が法人企業として、人として社会に認められている以上、社会の公器であるという事を一刻も忘れてはならないと思う。

                           ( 2005.09 )