閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
      藤十郎・団十郎      

         

新春の松竹座は坂田藤十郎と市川団十郎という歌舞伎界始まって以来の二大名跡の共演で幕を明けた。演目は勧進帳、忠臣蔵他、共演に相応しい出し物であった。

だいぶ以前のことだが、ある会で鴈治郎(当時)を招いて話をしてもらったことがある。鴈治郎は江戸歌舞伎と上方歌舞伎の違いについて解説をしていた。前者は勇壮で力みなぎる荒事芸であり、様式を重んずる。後者は柔らかみのある写実的な和事芸といわれるものである。鴈治郎はスーツを着たまま、荒事と和事の所作を演じて見せた。さすが人間国宝、瞬時に荒事と和事が入れ替わる。見事な技。本公演は正に荒事と和事の代表とも言うべきもの、見逃す訳には行かない。

今回の勧進帳は、団十郎の弁慶、海老蔵の富樫、藤十郎の義経という豪華な顔ぶれである。親子の弁慶と富樫の組合せは面白く、そのやり取りはなかなかの迫力であった。

一方弁慶に金剛杖で打たれる義経、身を小さくこごめ、ひたすら痛さをこらえている。富樫も義経と分かっていながら、主君思いの弁慶が本気になって主君をたたくところに痛く感動し、関所を通す。見事なクライマックスであった。

以前、あるツァーで北陸を巡ったことがある。鉛色の日本海に沿った道をバスが走っていると、ガイドが此処が有名な安宅関ですといった。海岸の松原に碑が立っているだけ、何とイメージと違ったことか。

当日のいまひとつの演目は、上方歌舞伎では定番の「封印切り」であった。忠兵衛は勿論籐十郎。今ではATMだ電子マネーだとお金が電波に乗って飛び交う時代、昔は飛脚が担いで運んだものだ。その為替は封印され、それを破ったものは斬首刑に処された。

その飛脚問屋の息子忠兵衛が、遊女梅川を請出そうと前金を払ったのだが、残金は手元不如意、人前の見栄もあり、ついに預かっている公金の封印を破ってしまう。忠兵衛は梅川と死出のたびに出る。父親に別れを告げるために、父親の住む新ノ口に向う。封印を切ってしまった後の、忠兵衛の切ない所作はさすが籐十郎ならではのものがあった。

近鉄で西大寺から橿原神宮に向かう途中に新ノ口という所がある。今では自動車免許証の交付場所で知られているが。私はこの付近を通るといつもこの「封印切り」の話を思い出してしまう。この話は実話にもとづいて作られている。

関蓉子というエッセイストが「海老蔵そして団十郎」という本を書いている。先代の団十郎、現在の団十郎、そして現在の海老蔵と親子三代に亘る成駒屋の物語を、数数の秘話を交えて綴ったもので、大変興味深い。なかでも十一代団十郎は昔かたぎで逸話にこと欠かない。

十一代団十郎はその美男振りで綺麗どころをはじめとする女性達から、海老様、海老様と呼ばれ大変人気がたかかった。一時は海老を食べるのは遠慮しようということにまでなったそうだ。私は新歌舞伎座の?落としで、「若き日の信長」を見たことがある。音吐朗々、その台詞回しが今でも印象に残っている。

海老様は完ぺき主義者で、筋を通す事にうるさかった。この「若き日の信長」でも新歌舞伎座が伝統ある回り舞台でないことと、冒頭でかじる柿が本物の名産品でなく、お菓子を使ったのが気に入らず、舞台を降りそうになったことがあったそうだ。

完ぺき主義者だけあって、団十郎の襲名は遅く、昭和三十七年のことであった。残念なことに、折角の歌舞伎きっての名跡市川団十郎襲名三年余で不帰の人となってしまった。

一方息子の現団十郎は父とは違い、おおらかで包容力があって温かい人柄のようである。白血病という大病を克服して、いまや歌舞伎界を背負って立つ大スターとして活躍。そして又その息子海老蔵は祖父に似た風貌を持ち、幼い頃から厳しい父親の薫陶を受け育ってきた。研究熱心さが手伝い、最近めきめきと腕を挙げている。

海老蔵襲名のとき「睨んでご覧に入れます」といって、あの大きな目玉で各席を睨んだ時はやんやの喝采であった。母親の話によると、万事おおらかな父親と違い海老蔵は神経質で繊細だそうである。二人が共通しているのは優しさにあるという。海老蔵は華ある役者として今後が大きく期待される。

先代団十郎は七代目幸四郎の息子で、堀越家に養子に貰われてきたのだが、親子三代市川家を引き継いで、歌舞伎界を盛り上げての功績はすこぶる大きいといえる。

「関西で歌舞伎を育てる会」ができたのは昭和五十三年十二月のことである。戦後関西の歌舞伎は衰退の一途を辿っていた。東京はなんと言っても団体の招待が多い。それに贔屓の綺麗どころもいる。関西では遂に南座の顔見世だけというところまで落ちこんでしまった。

これではいけない、関西から歌舞伎の火を消すなと、小松左京を始めとする文化人、政財界、労働界の人々が集まり、「関西歌舞伎を育てる会」を結成後援した。朝日座・中座・松竹座とフランチャイズも移り、道頓堀の船乗り込みも定例化し、新春と初夏の公演もすっかり定着して来た。「育てる会」は「愛する会」に改組された。

そして今年は松竹座の開場十周年、その記念すべき年に東西二大名優の顔あわせとなったのである。客席は結構若い娘さんの姿も見られた。残念ながらおじさん達の姿はほんのちらほらであった。育てる会、愛する会のメンバーはどこへ消えたのか。世界に誇る日本の伝統芸能歌舞伎、団十郎と海老蔵が晴れのパリはオペラ座でやんやの喝采を受けているというのに。 

               ( 2007.04 )