世界の中の日本を考える

midori.zzz の うたた寝のあとで 

今から40年も前ですが――
小学校の時 理科で 桜の花の観察があってね。
花びらが何枚で がくが どういう風についていて おしべとめしべが どういう風になっている・・・っていうの。
あれが私 大嫌いだったのね。
草や花に『きれいね』っていう以上の興味がなかったから。
でも それよりも 私が感じていたのは「世界には 数え切れないほどの草花があるのに 桜の花ひとつのことを覚えても 何になるんだろう」ということだったの。
「全ての草花について こんな事を覚えなくちゃならないのか」って。

それが中学になって 生物の教科書をもらったら 表紙のうらに 系統樹の図がのっているじゃないの!
パーッと霧が晴れていくようだった。
この世界の仕組みが 初めて理解できた気がした。

私は世界の全体像が知りたかったんだ。
最初から それを教えてくれればよかったのに・・・。

―今でも私 全体がどれだけあるか確かめてから 文を読み始めるようなところがある―

疑問に思ったとき 誰かに聞けばよかったんだ。「何の為に 桜の花について調べるの?」って。 でもその頃は 自分が何が分からないのかも 分からなかったのよね。

だから 系統樹を見たときは 本当にうれしかった。 今でも覚えているくらいだもの。
これで私が 偉大な生物学者にでもなっていれば・・・。そうはいかない所が 凡人たる所以ね。

今になって思えば もやもやした疑問があったからこそ 世界を発見したような喜びがあったのかもしれない。
最初から全体像を教わっても 「ふーん」と思っただけかも知れない。

つまり私が言いたいのは 教育って 思ったような結果には ならないんじゃないかってこと。

円周率にしても 3にするなんて とんでもないと思っていたけれど 筒型の袋を作るときなんか『大体3倍・・・』だし それでもいいかなって・・・。
でも3.14という半端な感じが 永久に割り切れない円周率を象徴していると思うけどね。

『針の穴から 世界を見よう』――息子の中学の社会の先生が配ったプリントなんだけど レポートを書くときは 出来るだけ小さなこと 身近な視点から始めて どんどん視野をひろげて 大きな問題を考えていこうっていう趣旨でね。
どれだけ小さな穴を開けられるかがポイントで。
なるほど・・・と思ったけれど なかなか出来ない。

考えてみれば 学問って 最初から体系が出来ているわけないわよね。
桜の花を調べて 他の花もひとつずつ調べて 似ている所 違っている所を比較して分類していくんだものね。
桜の花の観察は 学問の入り口でもあったわけだ。

他の人たちが 無意識のうちに理解していることを 私は理解出来ていなかったってことかな。これは 子供がどんな所で つまずくかという問題なのかも。

―大体私は 鈍いところが多々あって―

中学三年の家庭科の最後の授業が 包丁の研ぎ方だったのね。

灰色の砥石で 灰色の包丁を研いで・・・地味〜な仕事という感じで。
何でこんな事習うんだろうと思ったの。家庭科が好きじゃなかったし。

そしたら 全部終わって 後片付けもすんで 先生がおっしゃったの。
「今まで家庭科の授業でやってきたことは 皆 家庭生活を円滑にするためのものです。 みなさんが将来 よい家庭を築くためなんですよ。」

そんな事にも気づかなかった不明を 私 恥じました。

これは勉強の動機付けの問題かしら。
好きなことならいいけれど 嫌いなことに取り組むためには 学ぶ意味がわかっていないと。

結局は それぞれ自分で気づく事なのかな。
手取り足取り 教わることじゃなくて。
ひとつのことから学び取るものが 一人一人違うように。

でもやっぱり私 桜の花びらが5枚だと知っていると どんないい事があるのか 教えて欲しかったな!  (Feb. 26, 2002)


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